PROFILE
紺野 純(OREJUN)
■経歴
原点:ダンサーを目指し、時給850円で社会人生活をスタート
大学時代は英語に触れながら歌唱力も鍛えられる「英語ミュージカル部」に所属。高校の時に組んでいたバンドでボーカルを担当していたことと、大学の専攻が英語だったことが、この部活を選んだ理由だった。そのミュージカルを通して、ジャズダンスの魅力に取り憑かれた。
大学3 年次、休学して渡米。1年間ダンスと英語に明け暮れる日々を送る。世界を代表する超一流の振付師から直接指導を受け、その卓越した身体能力と観客に感動を与える表現力に感銘を受け、「将来はダンサーになる」という夢を持つ。
大学卒業後、時間の融通が利く精肉店でアルバイトをしながら、当時日本でトップクラスの評判だったダンススタジオに通いつめる。バイトの時給は、高校生と同じ850円だった。
ダンスでは、数々のオーディションを受けながら、トップの椅子を巡って壮絶な戦いを繰り広げることで「プロ意識」が芽生える。その過程で、自分の中の当たり前の基準として「世界レベル」の集中力と表現力が磨かれていった。
しかし、3年が経過してもプロダンサーとして生計を立てることはできなかった。食べていくだけでギリギリの収入。夢は壮大だが、現実はみじめな生活。見かねた精肉店のパートさんたちが、毎日交替で弁当を作って俺を支えてくれた。
次々に現れる若手ダンサーの活躍。そして結果を出せぬまま年齢だけを重ねてゆく焦りと、極度な貧困状態。そこから抜け出すために夢を断念したのは、25歳の時だった。
夢と引き換えに据えた目標は「自立して食べていけるよう、就職する事」だった。
調整期:社会とのずれを調整
就職活動を同世代より5年も遅れてスタートさせた上、社会人未経験。「超就職氷河期」に、アルバイトの経験しかない自分が、ネクタイを締めて出社するような企業に就職するのは、かなり厳しい現実だった。
時代はちょうどWindows 98が発売された頃。当時貪るように読んでいた求人情報誌から、パソコンスキルがあればそれを活かす仕事は山のようにあるということはわかった。そんな中、ある人材紹介会社が出していた一つの募集広告が目に留まる。
「難関IT資格を1年以内に取得すれば、提携パソコンスクールの授業料は全額返金。以後弊社にて、IT系の仕事を斡旋」
同期から5年も遅れてしまった自分が、周りに追いつく最短の道はこれしかない。ITが世間で求められているスキルならパソコンの資格は大きな武器になると考えた。
地方に住む親に頭を下げに帰郷し、パソコンスクールの資格取得コースの授業料である52万5千円を立て替えてもらい、その足でスクールに申し込む。こうして、バイトをしながら、ダンススタジオの代わりにパソコンスクールに通う日々が始まった。まさに背水の陣で、自分にはもう後がなかったから、必死だった。
ダンサー時代に培った集中力を発揮し、1日10時間以上10ヶ月間、資格試験対策の勉強を続ける。そして1年後、見事に指定された難関資格を取得した。授業料も全額返金され、起死回生のチャンスを活かしたことで自信もついた。
ほどなくして人材紹介会社から、外資系メーカーのITヘルプデスクの仕事を得る。スタートの時給は1950円。派遣社員という立場だったが、26歳で学生時代の同期と同じくらいの年収を稼げるようになった。
キャリア構築期:IT社会は下克上
ITの仕事を始めて気が付いたのは、ITの中でもいろいろなポジションがあるということ。会社のシステムの規模も様々で、アプリーションの開発からネットワークセキュリティーまで、同じIT なのに必要な知識と経験は全く違うものだった。
みんなが知らないことを知っていることに価値がある世界。そのためには、一つの会社で長く働くのは得策ではないと悟った。自分の経験値をアップさせていくという戦略のもと、派遣という立場を利用し、あえて転職を繰り返しながら、複数の会社のシステムをサポートした。4年間で7社を担当したが、すべて自分の経験と実績を伸ばすためだった。
29歳で結婚。それを期に正社員で働こうと決め、中途採用を行っている長く働けそうな職場を探した。複数のヘッドハンティング会社に登録し、3社からIT部門の正社員の内定を得た。
その中の一つが外資系金融機関だった。ボスになる人の人柄と提示された待遇に惚れて、その会社を選んだ。こうして時給が850円の時から5年後の30 歳で、ボーナスを除くベースの年収は620万円までアップした。
投資準備期:リーマンショックがすべての意識を変えた
経済的に苦労した経験から、お金に対するコンプレックスが消えることはなかった。収入が増えても生活スタイルはあまり変えず、手取り収入の15%を投資信託の積み立てに回すという生活は、派遣社員時代から続けていた。そして、34歳のときにリーマンショックが起こる。
世界中の金融機関が大リストラをはじめ、自分の勤め先もそれを免れることはできなかった。たった1日で同僚の半分を失うという経験は、「会社が生き残るためには誰かが犠牲になる」という冷ややかな現実をはっきりと認識させ「次は自分の番かもしれない」という懐疑心と恐怖心を抱くには、十分すぎるほどリアルな体験だった。
同時に、「いつ何が起きても路頭に迷わないために、複数の収入の柱を立てておく必要性」を強く感じる。
そして「サラリーマンという信用があるうちにできることはないか?」と模索し続け、出した結論が「会社員を続けながら不動産事業へ参入する」という選択だった。
幸いにも、就職してから続けていた投資信託の積み立てが、リーマンショック後の急ピッチな経済回復で大きな資産を生み出していた。その一部を解約して頭金を作り、札幌にマンションを1棟購入。2014年、40歳で複数の収入の柱を立てる第一歩を踏み出した。
パラレルキャリア期:OREJUN の夢
札幌にマンションを購入した4 か月後、大阪にもマンションを購入。総借入額は4億5千万を超えた。札幌も大阪も借り入れはスルガ銀行。スルガで借りた高金利のローンが、後でどれほど自分を苦しめることになるのか、当初は想像することもできなかった。
それからは生活が激変。本業の力を抜くことなく税金対策で資産管理法人を立ち上げ、たくさんの不動産セミナーに通い、管理会社とのやりとりをすべて一人でこなす生活を続ける。そこで得た気づきや不動産を所有した後の苦しみをブログで発信し始めると、だんだん反響が大きくなっていった。
スルガ銀行からの借り換え、そして大阪の売却に伴う不動産業者を相手にした民事裁判、民泊への参入。やるべきことは次から次へと現れ、休む暇もなく目まぐるしく日常が回っていった。
2019年、過去の経験と知見を書籍化した『思い通りの人生をデザインする複利の魔法』を出版。
Amazonの複数のランキングで1位を獲得。
これからは、「ビジネスマンが経済的基盤を整えながら自己実現を達成するためのサポート」を、世の中に提供していきたいと考えている。